プレーンオムレツ 〜自分のことを村上春樹だと思い込んでいる一般大学生の料理〜
「完璧なオムレツなどといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
そう言って彼はアイ・パッドの画面の中で得意げにフライパンを振って見せる。
卵は黒いフライパンの隅で、まるで三日月のようにその身を横たえている。
「ねえ。」
と僕は呼びかける。
「確かに君の作るオムレツはとびきりおいしそうだ。上にかかっているキノコのクリーム・ソースもきっとよく合うんだろうね。でも。」
そこまで続けて僕はちらりとキッチンに目をやった。卓上カセット・コンロが油にまみれて鈍く光っている。
「僕はあくまで家庭料理としてオムレツを作るつもりなんだ。つまり、コンロの火力はいまいちだしテフロン加工のオムレツ・パンなんて上等なものはないんだよ。」
返答はなかった。
「やれやれ。」
僕はそうつぶやくと昼食の用意に取り掛かった。
卵を3つ――それ以上でもそれ以下でもない――と塩、胡椒をボウルに入れなるべく泡を立てないように混ぜる。ボウルの底に小さな魔方陣でも書くみたいにでたらめに。
それが終わったら今度はフライパンを火にかける。
しばらく時間がたつと白い煙がもうもうと上がり始める。それを合図に油を入れて、一度火を弱めて温度を調節する。
菜箸を卵液にくぐらせて、フライパンをそっとなでる。
温度が最適であることを確認すると、躊躇なくボウルの中身をフライパンに流し込む。
そしてすぐさまフライパンを揺さぶって菜箸でかき回す。
世の中の人間は二種類に分けられる。半熟の卵を好む人間と、そうでない人間だ。
何故かは分からないが僕は生れついてからこのかた後者の側の人間であり、それ故に、火を十分に通すためにフライパンを火から外すと、そっと台の上に置いた。
30秒くらいだろうか、ある程度時間が過ぎ、再びフライパンをコンロに戻し、いよいよ仕上げに入る。
フライパンをゆする。そうすると卵がするすると滑る。少なくともユー・チューブや僕の頭の中ではそういう手はずだった。たいていの物事は想像の中では上手くいく。そういうものだ。
――その事実を受け入れるのは簡単なことではなかった。
しかし、僕が納得するとせざるとにかかわらず、時間はセーヌ川のようにゆっくりと、しかしとめどなく流れていくし、卵は、じめじめした夏の夜の思い出のようにフライパンにこびりついていく。
「オーケー、分かった。」
僕はひどく疲れた声でそうつぶやいた。
「認めよう。確かにフライパンの真ん中に卵がくっついている。」
僕はすぐさまターナーを取り出すと卵とフライパンの間に滑らせた。
結局のところ、人は何かに頼らなくては何かを成し遂げることはできない。だが、それが不幸なことであるとは誰一人として考えていないのだろう。
丁寧に折りたたまれたオムレツを、白い皿にのせる。
ケチャップでなにか書こうかと考えたが、適切な言葉が思い浮かばなかったのでただ波模様を描くにとどめた。
以後、いかにターナーに頼らずオムレツを仕上げるかということは僕の日常におけるささやかな目標として、壁にかかったセザンヌの静物画のように頭の一角に居座っている。
注)このシリーズは大体半分くらいフィクションです。(本官は料理する時ひとりごとは言いませんし、ハルキストではない)です。